---バーバラさんからのMessage” Disability is Natural”から…日本語訳---
What I would like to introduce now is my philosophy of work with people with disabilities.
これからご紹介したいのは、私が障害のある方たちと接していくときの哲学、モットーです。
They are little nervous because I’m going to show a video called “Disability is Natural.”
「Disability is Natural」という、障害を持っているということは自然なことであるというビデオをこれからご覧頂きます。
For you the audience the video is in English. All it is seven minutes.
7分間の英語のビデオです。
The words are English but there is classical music with it.
バックグラウンドミュージックはクラシック音楽です。パッフェルベルのカノンが出てきます。
“Disability is Natural”のビデオ
「障がいとは人生経験の中の自然な一部であり、発達障がいのある人が自立した暮らしを享受し、自己決定をし、自己選択をし、社会に貢献し、社会の一員として生きる権利を妨げるものではありません。またアメリカ社会の経済、政治、社会、文化、教育の主流から排除されるものでもありません。」(アメリカ発達障がい者の支援と基本的人権に関する宣言)
ジェンダー(自分のことを男である、女であると認識すること)や民族性と同じように障がいは人間の単なる特徴の一つです。世界中のどこにでも障がいのある人はずっといましたし、これからもいるでしょう。アメリカ人の五人に一人は障がいがあり、障がいのある人はアメリカ社会最大のマイノリティー集団です。だから障がいとは自然なことなのです。障がいのある人は、障がいのない人との違いより同じことのほうが多いのです。青いりんごが赤いりんごとの違いより同じことのほうが多いように・・・
障がいは自然なことです。障がいは自然なこと、と理解すると、障がいのある人たちは特別のサービスを必要とする特別な人たちであるというこれまでの考え方に疑問が湧いてきます。
私たちは彼らに社会の一員であってほしいと願いながら、どうして彼らを社会から孤立させ隔離するプログラムにはめ込もうとするのでしょうか?
どうして自分達には絶対しようとしないことを彼らにはするのでしょうか?
どうして彼らができることではなく、できないことにばかり目を向けるのでしょうか?
どうして人格を持った一人の人としてではなく、彼らの身体の部分についてばかり話すのでしょうか?
どうして彼らがあるがままの存在として在ってはいけないと思うのでしょうか?
どうして誰かの作った「普通」という定義に合わせて彼らを変えようとするのでしょうか?
どうして障がいというラベルを貼って、その人の可能性・価値・性格までも決めてしまうのでしょうか?
どうして彼らに貼られた障がいというラベルの方が彼らの名前よりも重要なのでしょうか?
私達が自分達について話す時には決してしないようなやり方で彼らについて話すことについて、彼らは私たちに許可を与えたことがあったでしょうか?
障がいは自然なことと理解すると、障がいとはただ身体の一部が私たちと違った動きをするだけだとわかります。そして障がいのある人たちはあるがままで在って良いということがわかります。だからもう彼らを変えようとせず、障がいというものをどう捉えるか、私たち自身を変えれば良いことがわかります。そして、身体と脳に良いとされる処置と治療の必要性に疑問を持ち始めます。実際、このような処置や治療は心や精神を傷つけるのです。そして、私たちは彼らから自立の機会を奪い、自己決定できない人間にしてしまうサービスや支援を拒否します。
生活の質とは、その人の身体の機能上の能力ではなく、自分の方向性を自分で決めることとわかります。何故なら、自分の思いを伝えようとする能力は話す能力よりも重要であり、自分で移動できることは歩く能力よりも重要だからです。その人なりのやり方で学ぶことは、みせかけの知能を表す指標に達することよりも重要なのです。支えてもらうことや理解してもらうことは、いわゆる「その場にふさわしい行動」をとることができるようになることよりも重要です。だから私たちは障がいのある人が成功するために必要な道具や便宜が手に入るようにします。
障がいがあるというラベルは、その人の能力の指標ではなく、ただ福祉サービスを受けるためのパスポートであることがわかります。このラベルは福祉サービス以外のところで私たちの会話に上ることはありません。家族や友人の間で、そして地域のなかで障がいは関係ないのです。障がいのある人が「おかしい」のではなく、相手の人間性を受け入れることができないとき、私達のほうこそ「おかしい」のです。障がいのある人は「特別のニーズ」を持っているのではなく、そのニーズはその人にとっては全く当たり前のものなのです。私たちは人を中心とした言葉を使い、人を最優先にします。そして私達はもう「ハンディキャップのある人」や「能力がない人」という言葉を使いません。障がいのある人は「不利益をこうむっている人」でも「機能不全の人」でもないからです。
障がいの「問題」は障がいのある人にあるのではなく、障がいのある人に対する私達の理解の仕方にあります。これからは私たちが私たち自身を理解しているのと同じように、障がいのある人に対しても、その人の持つ能力・才能・そして夢によって理解していきます。障がいのある人は、人為的に作られた福祉サービスの利用者という立場から、地域の中で当たり前の支援を受けて生きる市民に変わるのです。私達は、人の希望や夢は、運動機能の習得にあるのではなく、自分の人生を自分で切り開いていくことにあるに違いないとしっかり理解できます。その希望や夢がどんなに「非現実的」であろうとも、それを祝福し、受け入れます。何故ならこれまでの偉業はすべて、高い理想なくして成し遂げられてはいないからです。私達が障がいは自然なことであるという考えを受け入れる時、私達は障がいのある人と向き合うことができ、彼らが様々な能力を持った人たちだと心から思うことができるのです。(ビデオ終わり)
著作権;2001 Kathie Snow